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哲学

哲学では、世の中の絶対的な何かを、言葉で説明しようとする分野になっています。

記号学 の立場では、具体的な記号の意味を考察する分野とも言えるようです。

「哲(てつ)」とは

余談ですが、筆者の名前は「哲朗」です。 そのため、小学生の時に、「哲とは何か?」を漢字辞典で調べています。 「哲」とは、「物事の道理に明るい事」と書かれていました。

哲学とは、物事の道理を明らかにする学問のことのようです。

哲学で、物事の道理を明らかにする方法

哲学で扱う物事の道理は、「言語で表現できること」が一般的のようです。 言語というのは、必ずしも文章だけではなく、 論理学 的な表現も含まれています。

論理学 は、数学との関係が深いですが、「万有引力の法則」のように、数式で表すような物事の道理の場合、数式で表現せず、 それを言語で表現したものが扱われます。

構造主義・ポスト構造主義

構造主義では、何らかの普遍的な構造があって、人間社会はその中で成り立っていると考えます。 その前提で、その行動はこれだ、という風にして考えようとします。

構造主義の前の思想というのは、「個人には主体性がある。自分の事は、自分で自由に決められる」という考え方があります。

構造主義には、「本当は自由ではないのだ」というところが、ポイントのようです。

ポスト構造主義は、構造主義にある画一的な考え方を否定するところから始まっています。 多様性を認める考え方になっていますが、多様なために、何かひとつの思想には、まとまらないで来ているようです。

哲学による哲学の大前提の否定。そして、分析哲学へ

現象学、論理哲学、解釈学という分野は、伝統的な哲学の流れの中で生まれて来ています。 それぞれが、伝統的な哲学のアプローチで、それぞれの対象としているものの研究を進めています。

その結果として、「人類に共通の絶対的な何かがある」と考える伝統的な哲学の大前提が、実はそうではないということに行き着いています。

そして、そのアイディアの元に 分析哲学 の立場が生まれています。

現象学から分析哲学へ

現象学は、フッサール氏が切り開いた伝統的な哲学の一分野です。 伝統的な哲学の研究の中で、「現実は、自分の認識を通じて知った経験のこと」いうアイディアに行き着いています。

「誰が正確に言っているのか」や、「誰の説明が、正確な説明に一番近いのか」、といった考え方をしないでも済む考え方をしています。 この考え方は、そのまま分析哲学につながっています。

論理哲学から分析哲学へ

論理哲学は、ヴィトゲンシュタイン氏が切り開いた伝統的な哲学の一分野です。 人が物事を考える過程である「論理」を突き詰めています。

論理哲学によって、伝統的な哲学がやっていることは、人々が使っている言葉がどんな意味で、どんな使い方をしているかを元にして、 論理的な操作をしているだけであり、究極的な何かが出て来るようにはなっていないということが示されました。

論理哲学も、究極的な何かにこだわらない点や、言葉の使い方の整理をしていく点で、分析哲学につながっています。

解釈学から分析哲学へ

解釈学では、文章を解釈するとはどういうことなのか、言語とは何か、真実との関係は何か、ということが長年検討されています。

その中で、解釈というのは、解釈する人が持っている歴史的背景の影響を受けることが、気付かれて来ています。 絶対的な解釈というものはなく、人によるという点は、分析哲学につながっています。

認知心理学・発達心理学による、哲学の大前提の否定

伝統的な哲学では、自分が「〇〇」と考えていることのイメージは、他人も同じと考えるような考え方をします。 この「〇〇」が、「コップ」のように誰が見ても同じ名前の物であれば、特に問題ないのですが、「私」や「存在」のようなものだと、哲学的な議論になっています。

ところが、 認知心理学や発達心理学で言われていることですが、 「コップ」、「りんご」といった身近な物を表す言葉は、五感を使って覚えます。 言葉と物が結び付いています。 「コップ」と教えられれば、「コップ」と覚えます。

哲学で好まれる「私」については、目の前にあるものと対応付けて名前を覚えるようなことは難しいですが、 そうはいっても、様々な事例を通して、それぞれの人が「私」とは何か学びます。 体験する事例は、人によって違いますので、それが、「私」という概念の多様性になっています。

このように認知心理学・発達心理学から考えると、「〇〇」の意味が誰でも同じと考える伝統的な哲学の立場には、無理があります。 一方、分析哲学の立場はとても自然です。

ちなみに、哲学では「コップはコップなのか?」といった議論が発生することもあります。 日常生活ではさしあたって不要な考え方ですが、常識の範囲を超えて、新しい何かの仮説を生み出すには、有効なようです。

存在論

「『ある』とは、何か?」という問いを立てたのが、ハイデガー氏です。

ハイデガー氏はもともと、フッサール氏の弟子であったことから、現象学を学んだ後に存在論を打ち出しています。

そのような経緯があったことと、存在論の印象が強いことから、現象学の内容は正しくなく、存在論が正しいような認識を持っている人は多いようです。

一方で、筆者の理解だと、存在論は、せっかく現象学が扱った対象に対して、それが不確定であるという現象学の主張を否定して、 確定的な物と主張しているように見受けられます。 言い方を変えれば、「伝統的な哲学の立場で、現象学が扱った対象を説明しようとした」と言えそうです。



参考文献

伝統的な哲学

「哲学」は図でよくわかる 図解でスッキリ!超入門」 白取春彦 監修 青春出版社 2008
代表的な哲学者の主張をコンパクトにまとめています。この本に出て来る問いの対象は、「生きる」、「幸せ」、「結婚」、「言葉」、「善悪」、「仕事」、「死」。 哲学は、すべての学問の根元にあるもの。
ヴィトゲンシュタインは、哲学ができることを「言語の実際の用法を記述することにすぎない」としたので、哲学の殺人者と呼ばれている。


現象学

現象学を解説している本は、フッサールが提唱した現象学について、 それぞれの著者にとってのキーワード(関心事)とつなげながら、解説しているものが多いようです。


超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』 」 竹田青嗣 著 講談社 2012
まえがきで、現象学への批判の中にある重大な誤解について、簡潔にまとめています。 「絶対的に正しい認識の基礎付けをするのが、現象学」という誤解があるそうです。
この本全体としては、専門用語について、正確な説明を意識した書き方になっています。


現代現象学 経験から始める哲学入門」  植村玄輝 他 編著 新曜社 2017
現象学は、私たちの経験の探求。経験とは何かを考える。 経験には不完全性がある。 経験は「私にとって」というもの。 経験を分類する。経験の特徴を考察する。
経験の理解を通して、存在、価値、道徳、芸術といった伝統的な哲学のテーマに対して考察を進めています。 こうしたテーマは、経験の上で成り立っているということのようです。


現象学とは何か 哲学と学問を刷新する」  竹田青嗣・西研 編著 河出書房新社 2020
現象学に対しての、様々な批判や誤解がどのような経緯で起きたのか、丁寧に振り返るところから始まっています。
伝統的な哲学のスタイルは、主観と客観の一致を論証し、普遍的なものを説明しようとする。現象学はこのスタイルから離れている。 現象学では、認識とは確信であり、主観に基づいているもの。
ハイデガーは現象学のフッサールを師としながら、これを超えたような言われ方をする。 経験の対象となる存在と、その価値についての言及を始めた点が超えた部分になるが、妥当な手順を持たない自由な解釈ができるような方法論になっている。
本質観取:「〇〇とは何か」という問いを立てて、できれば複数の人で意見を出し合って、本質の理解を深めようとする方法。 現代の哲学カフェのような場所では、参加者の多様な意見を聞き合う場としていることが多いが、著者は誰もが納得するような本質があると考えている。
質的研究 も本質をつかむ方法のひとつ。
この本の後半は、「本質」の探求が中心的なテーマになっています。


現象学入門 新しい心の科学と哲学のために」 ステファン・コイファー、アントニー・チェメロ 著 勁草書房 2018
フッサールの現象学を中心にしながら、認知科学へのつながりを解説しています。
現象学の前にあるものとしてカント、現象学の後に続くものとして、ハイデガー、ゲシュタルト心理学、知覚、 アフォーダンス人工知能 と続きます。
この本では、人工知能は「ルールベースで思考するもの」、「二進数で思考するもの」という前提で、人工知能の限界が論じられています。


現象学という思考 <自明なもの>の知へ」  田口茂 著 筑摩書房 2014
確実と思うこと、自明(あたりまえ)と思うことについて、物、本質、類型、自我、変様、間主観性、といった言葉を手がかりに、なぜ、そのように思うのかを研究しています。
著者は、膨大な考察をこれらの概念の性質に対して、しています。 筆者の理解としては、「物(事)は、常に変わり続けるので、その意味では、確実な物(事)や自明な物(事)というものはない。 しかし、人は類型に当てはまれば、確実・自明と考える。 またこの時には、他人との共鳴もあり、これも、確実・自明と感じる根拠になる」ということが主旨のようでした。


<現実>とは何か 数学・哲学から始まる世界像の転換」  西郷甲矢人・田口茂 著 筑摩書房 2019
・量子物理学における「粒子がある」ということにある仕組みと、人間が「これが現実」と考えることについて、類似があると考えることによって、 現実を認識する仕組みの仮説を量子物理学の考え方を借りて検証しようとしています。 (脳科学や認知心理学的な方向性で、現実がどのようにできあがるのかを説明する時は、 「現実として認識される事は、人間の認知の仕組みによって作られるので、人によってずれや、あいまいさがある」、 といった説明になっています。 一方、この本は、あいまいさのある現実を数理的に扱っている学問として、量子物理学を引き合いに出しているのですが、 現実と数学の関係を考察するアプローチとして、この本のアプローチには一理あると思いました。)
この本では、「数学的な法則は、現実の近似(モデル)であり、現実そのものではない」という考え方はしません。
・非規準的選択:数学的には定まらないが、現実には定まっている例がいろいろあるようなケース。数学とは、このような状況を記述するものになる。
圏論には、自然変換がある。 自然変換は個々のものにこだわり過ぎず、かといって、おろそかにもしない物の見方になる。 物同士の類似ではなく、変換の部分に軸足を置く。 仏教の「空」の概念と似ている。 (この本における「自然変換」という言葉が表すものは、脳が抽象的な形で物事をとらえていることと、イコールのように筆者には読めました。)
幾何学は変換を考える事で発展してきた分野。


数学と論理をめぐる不思議な冒険」 ジョセフ・メイザー 著 松浦俊輔 訳 日経BP社 2006
数学の証明が、証明であるとはどういうことなのか?、といったことに対して、 実際の証明がどのようなものであるのかや、数式で表される法則が、現実にはどのように起きているのか、と言った内容で、 答えを示そうとしています。 人は、完全無欠な論理に対して、納得したり、「美しい」と感じているわけではないことを伝えたいようです。
現実の話としては、統計的な現象が出て来ます。


数学の現象学 数学的直観を扱うために生まれたフッサール現象学」 鈴木俊洋 著 法政大学出版局 2018
フッサールは、元々は数学者でありながら、哲学の分野において現象学を確立しています。 一般的には、この事実だけが知られているだけなので、数学の研究から現象学の確立までのフッサールの道のりを追う研究をされています。 著者は、「フッサール数学論」という名前で、現象学的な数学を述べようとしています。
数学の世界は、形式的な論理で理解される側面があり、それは数学の完全性のように考えられます。 一方で、「数覚」と呼べるような感覚で主観的・直感的に理解される側面があるのですが、そうしたものを不完全なものや、正しくないものとは考えず、 一定の正しさを持つものと考えたのがフッサールの立場であり、 その考え方を数学の分野も含む、広い分野で一般化することで、現象学というものができたようです。


解釈学

解釈学」 ジャン・グロンダン 著 白水社 2018
解釈学の歴史の本です。
・解釈学には、「真理というものはなく、あるのは解釈だけ」という思想が、ついて回る。
・解釈は歴史の影響を受ける。


解釈学の成立」 ディルタイ 著 以文社 1981
難解な本です。読み取れたのは、下記です。
・解釈学が、ギリシャ時代に詩の解釈から始まり、聖書の解釈を経ている。
・天才の行う解釈を、天才ではない人ができるように、規則を見つけようとしている。
・認知や了解という事の考察や、定義をしている。


解釈学の構想」  シュライエルマッハー 著 以文社 1984
メモ集のような本です。
聖書は文字で書いているものですが、俗書とは違うということが念頭にあるらしいことだけ、わかりました。


言語学・記号学・解釈学」  エルマー・ホーレンシュタイン 著 勁草書房 1987
言語とは、記号とは、といった論文が続く中で、最後が解釈学と構造主義になっています。 解釈学や構造主義について、簡潔にまとまっています。 解釈学とは、個は全から理解されるというところから始まって、解釈は、解釈する人のつながる歴史的な事柄と関係を持つという学問になったようです。


批判的解釈学 リクールとハーバマスの思想」 ジョン・B.トンプソン 著 法政大学出版局 1992
社会科学の理論を構築するにあたっては、言語学、解釈学、現象学といったものの理解が不可欠であるということが、念頭にあるようです。


科学の解釈学」 野家啓一 著 講談社 2013
ある現象に対しての科学の研究成果を、まったく別の現象に対して適用する疑似科学についての問題認識から始まっています。
科学の研究成果を説明する時には、実際の研究成果そのものではなく、身近なものに例えることはよくあります。 この本の問題意識は、例えの方が、独り歩きを初めて、別の分野に当てはめられるということが引き起こす問題のよでうす。 著者がこの本で示している解釈学というのは、最終的に科学の物語性に言及されていますので、 ひとつの例えだけを、部分的に取り出して転用するのではなく、 他の例えとの関係性も考慮するという点からアプローチをしているようでした。


構造主義・ポスト構造主義

構造主義がよ〜くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす」 高田明典 著 秀和システム 2007
ポスト構造主義は、「男女の違いのような、分類(構造)が揺らいでいる時期」としています。
構造主義では、実体ではなく、概念と概念の関係に着目。
構造のモデルは、予測や制御に使う。
親族の構造は、数学の群論で説明できる。男女の組合せで子供ができる(ただし、同じ土地や氏の男女の組合せはなし)、子供が男女のどちらか、 というルールは、可換群(アーベル群)の一種であるクラインの4元群になる。
複雑な関係の分析には、多変量解析を使う。
物語の構造の分析もある。
構造主義では、関係の変容を扱うのが困難。


思想の中の数学的構造」 山下正男 著 ちくま学芸文庫 2006
筆者が読んだのは、文庫版です。 元の本は、1980年に発行されています。
「構造主義がよ〜くわかる本」の中で、群論のところは、この本から引用されています。
取じた世界だと、群構造になるように、物事が変わって来る。親族構造の他に、八卦を紹介。 異なる思想の間に群構造がみられることもある。
生成の概念:木構造で、系統的に新しいものができてくる。生成文法も、そのひとつ
歴史観には、サインカーブや、上昇しながらのサインカーブのように表現できるモデルがある。


構造主義」 小野功生 監修 大城信哉 著 ナツメ社 2004
個人の自由な考えと、周囲の構造が決めってくる個人の行動の対立のような図式が、この本の全体を通して念頭にあるようです。
様々な仮説や主張が、事実のようにして書かれているいます。
「人間と、その周辺の世界」という世界観を持つと、「神は、どの位置になるのか?」という話になり、「神とは、人間のこと」という結論になるようです。


ポスト構造主義」 大城信哉 著 ナツメ社 2006
ポスト構造主義について、図解しながら全体像をわかりやすく整理しています。 様々な話が散らばっていたり、結び付いたりしているのですが、「後の人の主張は、前の人の主張よりも優っている」、 「他人の考えには間違いがある。自分の考え方は正しい。」という展開がとても多いです。
構造主義の前にあったのは、人間は、個人が自分の考えで動いているという考え方や、人間はどんどん進歩しているという考え方。 この考えで政治運動(マルクス主義)が進んだ。
構想主義の前にあった思想は、西洋文明が「自分たちが一番優れている」と考えたもの。
構造主義では、個人が必ずしも個別に自由に行動している訳ではない、ということを、 言語学、文化人類学、実在論、といったアプローチを裏付けとして、主張した。
構造主義は政治運動にブレーキをかけたが、構造主義によって、新しい政治のあり方が進んだ訳ではなかった。 ポスト構造主義には、現実の政治運動に新しい考えを入れていこうとするもの。
ポスト構造主義の悪いできごととして、意味のない数式を自分の主張に含めることで、自分の主張を権威付けする人たちがいる。


西田哲学

善の研究」  西田幾多郎 著 小坂国継 全注釈 講談社 2006
「善の研究」という本に対して、注釈を加えた本です。
「善の研究」という本は、西田幾多郎氏の30代後半の論文を集めて作られたもので、もともと1冊の本になるように書かれてものではなく、 「善の研究」という題名も、後から他人が付けたものとのことです。
純粋経験という言葉は、通常の経験は何かの思想が含まれているものと考え、それと区別するための概念。
純粋経験と実在についての説明の後に、善、倫理、宗教の話になっています。


西田幾多郎の哲学 物の真実に行く道」 小坂国継 著 岩波書店 2022
西田幾多郎のテーマは、自覚であり、主観も客観も超越したものとして、純粋経験というものを考えたところにあるようです。


純粋経験の哲学」 W.ジェイムズ 著 岩波書店 2004
意識とは何かから始まって、宗教論になっています。


西田幾多郎の実在論 AI、アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか」 池田善昭 著 明石書店 2018
実在を考えたのが西田哲学。
「人間」という言葉の「間」の部分が重要。「間」が人を活かすことにつながる。 西田哲学では、生命の実在は、有機体と環境の相互作用と考える。
副題の「AI、アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか」というのは、AIやアンドロイドが身体を通した経験というものを持たないことを指しているようです。



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